穆皇后呉氏

呉皇后
の皇后
在位 章武元年5月12日 - 章武3年5月1日
221年6月19日 - 223年6月16日

全名 呉莧
別称 穆皇后
出生 不詳
死去 延熙8年(245年)8月
埋葬 恵陵
配偶者 劉瑁
  劉備
呉懿
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穆皇后(ぼくこうごう)は、三国時代のの先主劉備の皇后。穆はで、姓は兗州陳留郡の人。族父は呉匡。兄は呉懿。従孫は呉喬(呉懿の孫)。

生涯

幼いころに父を失った。亡父と旧交のあった劉焉の入蜀時に、母や兄そして族弟の呉班一家と共に益州へ移住した。その後、間もなく人相見が呉氏を見て「大変高貴な身分に昇るだろう」と言った。それを聞いた劉焉はかねてから野望を持っていたため、自分の三男劉瑁の妻に迎えた。しかし、瑁が早世したため未亡人となった。

建安19年(214年)、劉備が劉焉の子劉璋を降し、成都へ入城した。その際、群臣が呉氏を娶るよう劉備に勧めたという。劉備は『同姓娶らず』という「礼教の規定に反する」と言いためらいを見せたが、法正の説得により夫人に立てた。

建安24年(219年)、劉備が漢中王を名乗ると、漢中王后に立てられた。

章武元年(221年)、劉備が即位すると皇后になり、建興元年(223年)、劉備が死去し劉禅が即位すると、皇太后になった。

建興12年(234年)正月、胡氏(劉琰の妻)が呉氏に年賀のため参内した。呉氏は胡氏を1か月間宮中に留め置くよう命じた後に退出させた。しかし、耄碌していた劉琰は胡氏が劉禅と浮気をしたと思い、胡氏に対し暴行を加え離縁してしまった。胡氏がこのことを訴え出ると、劉琰は逮捕投獄された揚句に公開処刑された。

延熙8年(245年)8月に死去し、劉備の恵陵へ合葬された。

小説『三国志演義』では、劉永・劉理の実母という設定になっている。

陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝