孫覇

孫覇
続柄 大帝第四皇子

全名 孫覇
称号 魯王
身位
敬称 殿下
死去 赤烏13年(250年
配偶者 劉氏(劉基の娘)
子女 孫基
孫壱
父親 大帝
母親 謝姫
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孫 覇(そん は)は、中国三国時代の人物。呉の初代皇帝である孫権の庶子。字は子威。揚州呉郡富春県の人[1]。母は謝姫[2]。妻は劉基の娘。子は孫基・孫壱[3]

兄で皇太子孫和との間に二宮事件と呼ばれる後継者争いを起こした末、孫権より自害を命じられた。

経歴

赤烏5年(242年)、兄の孫和が皇太子に立てられた際、群臣たちはその母を皇后に、また孫覇の兄弟たちを王位につけるよう懇願した。孫権は一度拒絶したが、半年後に同様の請願があり、孫覇を魯王に封じた。教育係として是儀が付けられた。史書にはその人柄についての記載はないが、羊衜から「東宮と並んで徳のある人物として美名が高い」と称された記録が残されている。

孫覇は孫権から寵愛され、兄と同様の待遇を受け、同じ宮殿に住み続けた。この扱いが批判されると、孫権は別々の宮を設置し、それぞれに幕僚をつけた。しかし、この措置は孫覇の不満を買っていた。兄との仲が険悪になった。かえって派閥抗争を過熱させ、重臣達を巻き込んだ二派の争いに発展した。

孫覇派(魯王派)は、楊竺全奇孫奇呉安といった取り巻きや外戚の孫魯班(全公主)の他、歩騭呂岱全琮呂拠孫弘らが支持していたという(『通語』)。

孫権が、2人の不和を案じて人の出入りを禁止し、学問に励むよう訓戒をしたが、対立は止まなかった。楊竺・全寄・孫奇・呉安は孫和の廃位を実現させるため、陸遜顧譚といった孫和を支持する者に対する讒言を、孫権に対し何度か上奏した。一方の孫覇も同様のことをしたことがあったという。是儀は何度か孫覇に諫言したが、聞き入れられることはなかった(「是儀伝」)。

一時は孫和派(太子派)の重臣の排除に成功したものの、歩騭や全琮といった有力者が世を去ると、孫覇派も勢いを失い、孫和派との一進一退の抗争が続いた。

赤烏13年(250年)、孫権は抗争を解決するため、どちらを擁立しても後々しこりが残る事を考慮し、新たに孫亮を太子とした。一方で孫和を廃太子とし、孫覇にも自殺を命じた上で、楊竺・全寄・孫奇・呉安らを誅殺した。『通語』によると、孫峻と相談した上での措置だったという。

羅貫中の小説『三国志演義』には登場しない。

子孫

五鳳年間に子の孫基は呉侯、孫壱は宛陵侯に封じられた。孫和の子の孫晧が皇帝として即位すると、孫基・孫壱は爵位と領国を削られ、彼らの祖母の謝姫と共に、会稽郡烏傷県に幽閉された。

出典

  • 陳寿撰、裴松之注『三国志』巻59 呉書 孫覇伝(中国語版ウィキソース)

脚注

  1. ^ 『三国志』呉書 孫堅伝記載、祖父の孫堅の本貫
  2. ^ 孫覇の母と直接の言及はないが、『三国志』孫覇伝にて、子の孫基・孫壱の祖母が謝姫と記述される。
  3. ^ 孫壱 (沙羡侯)とは別人。
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
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巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
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巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
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巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
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巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
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巻65 王楼賀韋華伝
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