楽進

楽進
後漢 
広昌亭侯・右将軍
出生
兗州陽平郡衛国県
死去 建安23年(218年
拼音 Yuè Jìn
文謙
諡号 威侯
主君 曹操
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楽 進(がく しん、生年不詳 - 218年)は、中国後漢末期の武将。字は文謙兗州陽平郡衛国県(現在の河南省濮陽市清豊県)の人。子は楽綝。孫は楽肇。『三国志』魏志「張楽于張徐伝」に伝がある。

生涯

一番乗りの勇将

小柄な体格だが激しい胆気を持ち、曹操董卓に反抗して挙兵すると、その下へ馳せ参じた。曹操は当初、楽進を武将ではなく帳下の吏(記録係)として用いていた。あるとき楽進を出身郡へ帰らせて兵を集めさせたところ、楽進は1000もの兵を引き連れ帰還してきたという。これにより曹操は楽進を武将として起用することにし、軍の仮司馬・陥陣都尉に任命した。

濮陽での呂布・雍丘での張超・苦での橋蕤袁術軍の部将)との戦いでは、いずれも一番乗りとしての戦功を立て、広昌亭侯に封ぜられた。

建安3年(198年)、安衆での張繡戦・下邳の呂布包囲戦では、別将を破った。

翌4年(199年)、射犬での眭固攻撃・小沛での劉備攻撃にも従軍し、全てを討ち破って討寇校尉に任ぜられた。

翌5年(200年)、官渡の戦いでは黄河を渡り、于禁と共に歩・騎兵5000人を指揮して袁紹の別営を攻撃し、延津から西南の汲・獲嘉の二県にあった袁紹の別陣30余箇所を焼き払い、数千の兵を討ち取り、数千の兵を捕虜とし、将軍の何茂・王摩ら20余人を降伏させた(「于禁伝」)。官渡に帰還した後も勇戦し、烏巣では淳于瓊を斬り、兵糧を絶った。

建安7年(202年)9月、袁譚袁尚兄弟との戦いにも従軍し、黎陽では袁尚軍の大将厳敬を斬り、これにより行游撃将軍に任ぜられた。

翌8年(203年)、曹操は3月に黎陽から逃走した袁兄弟を4月に城に追い詰めた後、5月に一度許都に帰還した。楽進は張遼と共に陰安を落とし、住民を河南に移した(「張遼伝」)。その後、別働隊を率いて黄巾の残党を打ち破り、楽安郡を平定した。

翌9年(204年)正月、鄴城包囲の軍に従軍した。8月に鄴城は陥落した。

翌10年(205年)正月、南皮の袁譚を攻め、東門へ一番乗りとして突入した。袁譚撃破後は、張郃と共に(「張郃伝」)別働隊を指揮して雍奴を攻撃し打ち破った。

同年8月、曹操が烏桓を征討した隙に并州高幹が反逆すると、楽進は李典とともに別働隊の指揮を執り北道から上党郡に入り、道を迂回して高幹の背後に出た。高幹がこれを受けて壷関に引き揚げると、楽進は連戦して高幹の兵を斬首した。しかし、高幹は壷関に引き籠って堅守し降伏しなかった。

翌11年(206年)正月、曹操が自ら高幹を征討して三カ月後に、曹仁の策でようやく陥落させることができた(「曹仁伝」)。曹操が朝廷に楽進・于禁・張遼の栄誉を称えてこれを上奏すると、楽進は折衝将軍に封じられた。

同年8月、曹操が淳于に布陣すると、楽進は李典とともに海賊の管承を攻撃した。管承が敗れて海島に逃げ込んだため、海岸付近は平定された。

当時、楽進は于禁・張遼・張郃・徐晃と共に名将と謳われており、曹操が征伐に出る度に五人が交代で、進攻のときは先鋒となり、撤退のときは殿軍となっていた(「于禁伝」)。

守りの要

荊州劉表からの攻撃に備え、楽進は陽翟に派遣された。于禁が潁陰に、張遼が長社に派遣されていたため、三人がいがみ合うことがあったが、参軍の趙儼のおかげで統制された(「趙儼伝」)。

建安13年(208年)7月、曹操の劉表征伐に従軍して荊州を平定し、楽進を州治の襄陽に駐屯させた。楽進は関羽・蘇非らを攻撃して敗走させ、南郡の山谷に蛮居していた異民族を降伏させた。また、劉備の任命した臨沮県長の杜普や旌陽県長の梁大を征伐し、大いに破った。「文聘伝」には、尋口において文聘と共に関羽を討ったとある。

建安17年(212年)、劉備が劉璋へ告げた内容には「関羽は青泥で楽進と対峙しており、自らが救援にいかねば楽進が大勝し、張魯を上回る脅威になる」と述べられている[1]

建安18年(213年)、曹操の孫権征伐に従軍すると、仮節となった。曹操は帰還する際、楽進を張遼・李典と共に合肥へ駐屯させ、敵軍の侵攻を防がせた。建安18年(214年)、楽進は城の守りを担当し、500戸を加増され1200戸の領邑を領すようになった。

建安20年(215年)、合肥城が包囲された時(合肥の戦い)は、李典の説得で日頃の不仲を忘れて互いに協力した(「李典伝」)。張遼と李典が決死隊を指揮して城外に出撃したため、楽進は薛悌と城の守備を担当した。孫権が撤退すると、楽進は張遼らと共にこれを追撃した(「張遼伝」)。

しばしばの功績によって、500戸を分割し1子を列侯に立てることが許され、右将軍に昇進した。この時、夏侯惇は曹操からの「不臣の礼」により前将軍となっていなかったため、右将軍の楽進は左将軍の于禁と並び、魏の将軍として筆頭の地位にあった。

建安23年(218年)、死去し、威侯された。子が後を継いだ。

正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には楽進も含まれている(「斉王紀」)。

評価

陳寿は、曹操在世時に最も功績があった将軍として、張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃を一つの巻に収録しており、楽進はその二番目に位置付けられている。楽進は驍勇果断で名を顕したと評している一方で、張遼や徐晃のようにその評判を裏付ける詳細な記述が無いのは、記録漏れがあったからだろうと述べている。

『魏書』は、楽進が行軍の中から抜擢され、佐命立功して名将となったことを、曹操の人物眼が優れていたことの例えとして挙げている。

演義の楽進

小説『三国志演義』では先登や別働の描写も少なく、関羽戦など幾つもの功績が無くなっている代わりに、弓を得意とする武将として描かれている。濮陽の地で呂布軍と戦った時には成廉を射殺し、また南皮での袁譚との戦いでは郭図を射殺している。濡須口の戦いでは凌統一騎討ちを行ない、数十合の討ち合いを展開するが、その最中に甘寧の矢を顔に受け矢傷を負ってしまう。その後は登場しない。

注釈

脚注

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  1. ^ 「先主伝」、『通鑒』劉璋を攻撃するために、劉備はこれらのうその話をでっち上げた。

関連項目

陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝
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