景皇后朱氏

朱皇后
呉の皇后
在位 永安5年8月16日 - 永安7年7月25日
262年9月16日 - 264年9月3日

別称 景皇后
死去 甘露元年(265年)7月
埋葬 定陵
配偶者 景帝
氏族 呉郡朱氏
父親 朱拠
母親 朱公主
兄弟 朱熊、朱損
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朱皇后(しゅこうごう)は、三国時代の呉の景帝孫休の皇后。諡号景皇后。揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)の出身。母方の祖父は孫権(大帝)。父は朱拠。母は孫魯育(朱公主)。兄弟は朱熊・朱損。

経歴

呉郡の名門朱氏と公主の娘として生まれる。赤烏年間末、孫権の意向により孫休の妃(正室)となった。

太元2年(252年)、琅邪王になった孫休に伴って虎林に移住した。孫権の崩御後、夫婦は丹陽に移され、後に会稽郡に移った。

五鳳2年(255年)、孫儀・張怡・林恂らによる孫峻暗殺未遂事件が起き、母の朱公主も謀反の疑いで殺害された。孫休にも災いが及ぶ危険があったため、朱妃を建業に送り、孫峻に出頭した。夫婦は手を取りあい涙ながらに別れたという。しかし孫峻は咎めなかった。朱妃は孫休の元に送り返された。

永安元年(258年)、孫休に従って建業に入った。孫休が皇后を立てることを勧められ、一時辞退した。同5年(262年)8月16日に立后された。

永安7年(264年)7月に景帝が崩御すると、皇太后となった。その遺児が幼少であったので、濮陽興張布が烏程侯の孫晧を皇帝にする旨を朱太后に尋ねたところ、朱太后は「私は未亡人にすぎず、呉を存続できる人物であれば構いません」と述べ、2人に判断を一任した。そこで孫晧が擁立された。

同年(264年)9月、即位した孫晧によって皇太后の位を落とされ、景皇后、安定宮とも称される。さらに甘露元年(265年)7月、孫晧は彼女を迫害し死に追いやった。人々は死去した場所や葬儀の仕方などから、景皇后の死が病死でないことを知り悲しんだという。定陵にある孫休の陵墓に合葬された。

人物

おっとりとして、優しい淑女風の美人と評されている。また名前が佩蘭と記載されている(『老狐談歴代麗人記』)。

参考文献

陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝
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