大谷光見

大谷 光見(おおたに こうけん 1965年昭和40年)9月4日 - )は、浄土真宗の僧で、浄土真宗東本願寺派第26世法主。同派の本山である浄土真宗東本願寺派本山東本願寺住職[1]。東本願寺ニューヨーク代表兼住職。幼名は光養麿。法名は聞如。雅号は愚洋。神奈川県立湘南高等学校早稲田大学理工学部物理学科卒業。ニューヨーク大学大学院哲学科宗教学専攻修了。

経歴

東本願寺第24世法主・大谷光暢(闡如)の長男で、当時真宗大谷派の新門(法主後継者)であった大谷光紹(興如)の長男として誕生。母は真宗誠照寺派第28世法主・二条秀淳の長女・大谷貴代子

1975年(昭和50年)、真宗大谷派の新々門として得度1981年(昭和56年)、父の大谷光紹が、真宗大谷派内局(当局)との間の、法統に対する考え方の違い(「お東騒動」)により、自身が住職であった真宗大谷派東京別院東京本願寺を宗派から独立させ、真宗大谷派の僧籍から離れたことから、父に代って新門となる。そして、1988年(昭和63年)、光紹が東京本願寺を本山として結成した「浄土真宗東本願寺派」の新門を兼務することを表明。しかし、真宗大谷派はこれを認めず、翌1989年平成元年)、真宗大谷派の僧籍から離れた。

以降、浄土真宗東本願寺派の法嗣として教化に努め、1999年(平成11年)、光紹の逝去により第26世法主を継承。2001年(平成13年)には、本山「東京本願寺」の名称を「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」へ改称することが認可され、法主継承を奉告する「傅燈式」とともに「寺号公称奉告法要」を勤めた。

2004年(平成16年)3月、ソウル出身の韓国人・金英蘭(近藤ひでか)と結婚した。

著書

  • 「こころの時代」「こころの時代2」
  • 「いのちのみなもと」
  • 「こころをあわせて御遠忌を」
  • 「遠く宿縁を慶べ -親鸞聖人に遇える幸せ-」(春秋社刊)

脚注

  1. ^ 浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺 > 宗旨

本願寺寺基の移転と分立

東西分立前
本願寺の歴史

大谷廟堂 1272-1295(1321) → (大谷影堂)1295-1321大谷本願寺1321 - 1465 山科本願寺1483 - 1532石山本願寺(大坂本願寺)1532 - 1580鷺森本願寺1581 - 1583 ⇒ 貝塚本願寺1583 - 1585天満本願寺1585 - 1591本願寺(堀川六条)1591 - (1603) → (1603本願寺の東西分立

東西分立後
(本願寺〈西〉) → 1881 - 浄土真宗本願寺派
(本願寺〈東〉) → 1881 - 真宗大谷派
東本願寺分派後
(1881) - 真宗大谷派
1988 - 浄土真宗東本願寺派

東京本願寺1981 - 2001 → 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺2001 -

浄土真宗大谷本願寺派
本願寺文化興隆財団

⇒ 本山本願寺(山科区上花山)1996 -

本願寺(京都市右京区)

⇒ (嵯峨)本願寺2005 -

東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている『宗憲』第十三条
記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。

本願寺歴代

東西分立前

(宗祖) 親鸞 - (2) 如信 - 3 覚如 - 4 善如 - 5 綽如 - 6 巧如 - 7 存如 - 8 蓮如 - 9 実如 - 10 証如 - 11 顕如 - (12→隠退) 教如) - (1603年 本願寺の東西分立

東西分立後
西本願寺

西12 准如 - 西13 良如 - 西14 寂如 - 西15 住如 - 西16 湛如 - 西17 法如 - 西18 文如 - 西19 本如 - 西20 広如 - 西21 明如 - 西22 鏡如 - 西23 勝如 - *西24即如 - 西25大谷光淳(専如) -

東本願寺

東12 教如 - 東13 宣如 - 東14 如 - 東15 常如 - 東16 一如 - 東17 真如 - 東18 従如 - 東19 乗如 - 東20 達如 - 東21 嚴如 - 東22 現如 - 東23 彰如 - 東24 闡如東本願寺分派

東本願寺分派後
真宗本廟(東本願寺)
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺

東本25 興如 - 東本26大谷光見(聞如) -

­本山本願寺(浄土真宗大谷本願寺派)[1]

東山25 大谷暢順(經如)[2] -

(嵯峨)本願寺
略称 - 「西」=本願寺派、「」=大谷派、「東本」=東本願寺派、「東山」=(東山上花山)本願寺、「嵯峨」=(嵯峨)本願寺