萱野重利

萱野 重利 (かやの しげとし、寛永6年(1629年) – 元禄15年8月6日(1702年8月28日))は、江戸時代中期の武士旗本大島家の家老。通称は七郎左衛門(しちろうざえもん)。

生涯

寛永6年(1629年)、5000石の旗本・大島家の家臣・萱野恒重の子として摂津国途豊郡萱野郷に生まれる。

兄・重次の養子に入って萱野家の家督を継ぎ、主家の美濃の旗本大島義近・大島義也父子に家老として仕えた。 大島氏の所領である倉橋庄(後の椋橋庄、くらはしのしょう)(現豊中市大島町[1])の代官を務めていた。

重利の三男・重実(三平)は、赤穂藩主・浅野長矩に仕えた。しかし赤穂藩は、長矩が吉良義央への殿中刃傷に及んだため改易となった。重実はその時の江戸からの急使として赤穂へ派遣され、そのまま大石良雄派となり神文血判の盟約にも名を連ねた。

赤穂城開城後、萱野郷の実家に身を寄せた重実に対し、大島義也は大島家への再仕官を認め、重利も仕官を勧めた。しかし重実が断ったため、仇討ちするつもりではないかと疑うようになり、一党から抜けるよう重実に命じた。元禄15年(1702年)1月、重実は忠孝の間で苦悩したすえ自刃すると、その後を追うように重利も同年8月6日に死去した。享年74。家督は長男・萱野重通が継いだ。

脚注

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  1. ^ 庄本町一丁目の椋橋總社などに名を残す

関連項目

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