水谷実雄

水谷 実雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県串間市
生年月日 (1947-11-19) 1947年11月19日(76歳)
身長
体重
180 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手一塁手指名打者
プロ入り 1965年 ドラフト4位
初出場 1966年9月30日
最終出場 1985年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
この表について
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水谷 実雄(みずたに じつお、1947年11月19日 - )は、宮崎県串間市出身の元プロ野球選手外野手内野手)・コーチ解説者評論家

経歴

プロ入りまで

宮崎商1年次の1963年に、控え投手として夏の甲子園の宮崎県予選に出場。準決勝で先発し本庄高に完封勝利、決勝では清俊彦を擁する高鍋高と対戦し、9回にリリーフで登板して4-3で辛勝し、本大会への出場を決める。甲子園では2回戦で甲府商に敗れ、自身の登板は無かった。2年上のチームメートに高橋博小川亨、1年上には山本真一がいた。2年次の1964年にはエース・4番打者として夏の甲子園に連続出場し、1回戦で旭川南高、2回戦で芝池博明を擁する滝川高を降し準々決勝に進出。ここでも熊谷商工に逆転勝ちし準決勝に進むが、優勝した高知高の光内数喜(芝工大-鐘淵化学)と投げ合い0-1で惜敗。3年次の1965年夏は県予選で敗れ、甲子園出場を逸した。

現役時代

同年の第1回ドラフトで広島カープに4位で指名され、投手として入団[1]

1年目の1966年はいきなり腎臓病を患い入院し、日南キャンプは不参加。以来、ジンちゃん愛称で親しまれる。

藤村隆男二軍監督の指導は基礎体力作りばかりで、ボールに触ることを許さなかったが、後に「鬼軍曹のお陰で、プロでメシが食える体が出来た」と語っており、スパルタ指導の教育スタイルの原型となった[2]

同年オフに石本秀一ヘッドコーチに勧められ野手転向[3]し、当初は三塁手で起用されたが、守備に難があり外野手に再転向。

しばらくは二軍暮らしが続いて戦力外リストに入ったこともあったが、上田利治コーチや関根潤三コーチらの指導を受けて1970年に一軍に定着。

1971年には開幕直後から左翼手として起用され、5月には1番打者に定着。初めて規定打席に到達し、打率.283(リーグ3位)を記録、外野手としてベストナインに選出される。

その後、ジム・ヒックスの加入もあり一時出場機会を減らす。

1975年には規定打席不足ながらレギュラーではチーム2位となる打率.285を挙げて広島の初優勝に貢献し、優勝を決めた10月15日巨人戦(後楽園)ではウイニングボールを掴んだ[4]。同年の阪急との日本シリーズでは、前半3試合に左翼手として先発するが、シリーズ通算8打数1安打に終わる。これ以後は主力打者として活躍。

1976年には打率.308(リーグ7位)と初の3割越えを果たし、26本塁打を放つ。同年から1978年にかけて広島球団としては初となる3年連続の打率3割を記録する。守備面では1977年7月から一塁手に専念、1978年は球団記録となる打率.348で首位打者のタイトルを獲得した。1979年から1980年にかけての連続日本一にも貢献し、1979年の近鉄との日本シリーズでは2本塁打を放ち優秀選手賞を獲得。1980年の近鉄との日本シリーズでは3本塁打、うち第6戦では1回に先制の満塁本塁打を放つ。山本浩二衣笠祥雄らと共に赤ヘル黄金時代を担い、その後もジム・ライトル、山本とクリーンナップを組んで5番打者として活躍するも、チームが4位に終わった1982年オフ、球団フロントとの確執から加藤英司との大型トレードにより阪急ブレーブスに移籍した[1]

移籍初年度の1983年は新外国人のブーマー・ウェルズを差し置いて4番・指名打者を任され、自身初の130試合フル出場を果たす。苦手な守備から解放され打撃に専念でき[5]、打撃も好調で、初の30本越えとなる36本塁打、114打点を記録し、打点王を獲得した。同年は、広島時代に指導を受けた上田利治監督の発言から、ブーマーに肖ってミズマーとも呼ばれた。

しかし、1984年ロッテオリオンズとの開幕戦で、土屋正勝から頭部に死球を受けて左側頭部骨折三半規管損傷の重症を負い、長期欠場を余儀なくされる。同年夏に復帰し後半戦の63試合に出場するも、頭痛・吐き気・めまい等の後遺症に苦しみ、打率.181と低迷した[6]

1985年5月には後遺症の徹底治療のために埼玉医科大学附属病院入院するが[6]、無類の勝負強さを誇った打撃が甦る事はなく、同年のシーズン終了後に現役を引退。結局最後の2シーズンは不本意なまま現役を終えた。「今でも後遺症はありますよ。でも「あのデットボールがなかったら」なんて思ったことはない。それだけは、言っちゃあいかんのですよ。」[5]と述べている。

現役引退後

引退後はフジテレビ関西テレビ「ナイター中継/野球中継/プロ野球中継&プロ野球ニュース」解説者・サンケイスポーツ評論家(1986年)を経て、阪急二軍打撃コーチ(1987年 - 1988年)、広島時代のチームメイト山本浩二監督の招聘で[7]広島一軍打撃コーチ(1989年 - 1991年)→一軍チーフ打撃コーチ(1992年 - 1993年)、近鉄一軍打撃コーチ(1994年)→一軍ヘッド兼打撃コーチ(1995年)、ダイエー一軍打撃コーチ(1996年 - 1997年)、中日一軍打撃コーチ(1998年)→一軍打撃チーフコーチ(1999年 - 2001年)、阪神二軍打撃コーチ(2003年 - 2006年)を務めた[1]。広島コーチ時代は山本に長年の関係により、若手の指導には全幅の信頼を置かれていた[5]。「このメンバーなら、優勝せんといかん」と厳命を受け、野村謙二郎、江藤智[8]前田智徳緒方孝市金本知憲を育て[5]、1991年のリーグ優勝に貢献。彼らを教える時には1人だけ怒らず一斉に叱り、水谷だけが怒鳴り役で山本には食事の席で「いつも僕ばっかり悪者じゃ」と冗談で言ったら、山本の奥さんが「そうよ。浩二さんは外面ばっかりいいんやから。水谷さんもっと言って」と笑っていた[5]。入団は水谷の方が3年早いが、年齢は1年上だが山本の事を「コージ」と呼び、タメ口を使い、半世紀以上にわたり、義兄弟のような付き合いをしてきた[5]長嶋清幸は「理論と合わなかった。若い時にお世話になった先輩だし、人間的にどうこうではなく、打撃理論が受け入れられなくて難しかった。そのうち「もう好きにしろ」みたいになって…。浩二さんが唯一信頼している人だし、現役時代は不調の時に水谷さんにアドバイスをもらっていたほど。それほど技術論はすごい。でも、すごく難しくて、自分の打撃がおかしくなり、取り返しがつかなくなった。」[9]と述べている。近鉄コーチ時代は中村紀洋を育て[8]、中村は「僕がプロ3年目から一緒にやっていた水谷コーチとの猛練習も、もう苦しいどころじゃなかった。キャンプからずっと、ほぼバッティング練習ばかり。守備練習をした覚えがないくらい、とにかくバットを振り続けました。でも、その練習があったからこそ、こうして今でもプロでプレーできているんじゃないかと思っています。そういった練習の積み重ねによって、体の使い方も分かりました。フルスイングの意識が芽生えたのもそのころからだったと思います。」[10]、「僕は近鉄時代に水谷実雄打撃コーチという恩師がいました。打撃の状態が悪い時もあります。その状況で当てにいかずに、持ち味のフルスイングを貫けたのは水谷さんの教えのおかげです。」[11]と述べ、1995年シーズン途中には鈴木啓示監督の辞任を受け、同年8月9日からシーズン終了まで監督代行を務めた。

阪神退団後は西宮市甲東園で「鶏処 だれやみ」を経営し[12] [13] [14] [15]、その傍ら、2011年からはデイリースポーツ神戸本社専属評論家として活動。2013年には一軍チーフ打撃コーチとして7年ぶりに阪神へ復帰し[16]、同年10月14日に球団に辞任を申し入れて退団[17]

選手としての特徴

バットのヘッドを投手に向けて威嚇するように構え、投手の球種を読んで、球を思いっきり振り抜く勝負強い打撃が特徴だった。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1966 広島 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1967 3 5 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .250 .400 .250 .650
1969 37 57 51 4 13 1 0 1 17 1 0 0 0 0 6 0 0 14 1 .255 .333 .333 .667
1970 106 248 234 16 57 6 0 7 84 25 5 5 5 2 4 0 3 35 4 .244 .263 .359 .622
1971 125 524 481 64 136 22 2 9 189 45 14 6 5 2 29 2 7 39 11 .283 .331 .393 .724
1972 109 372 344 38 90 13 0 12 139 49 7 1 4 2 21 3 1 44 8 .262 .304 .404 .708
1973 102 267 251 18 58 10 1 7 91 29 1 1 1 0 12 0 3 32 7 .231 .274 .363 .637
1974 77 224 205 21 51 10 1 6 81 16 0 3 0 1 16 2 2 31 10 .249 .308 .395 .703
1975 121 389 358 29 102 14 1 13 157 37 5 1 5 3 22 5 1 39 10 .285 .326 .439 .764
1976 118 406 360 55 111 18 2 26 211 73 3 6 3 2 40 8 1 42 14 .308 .377 .586 .963
1977 119 444 404 53 126 31 2 13 200 50 2 4 0 3 35 3 2 46 13 .312 .367 .495 .862
1978 119 441 402 60 140 23 0 25 238 75 2 3 0 3 33 2 3 48 8 .348 .399 .592 .991
1979 125 465 408 48 106 9 0 23 184 69 2 1 0 4 53 1 0 77 10 .260 .342 .451 .793
1980 116 408 352 35 95 5 1 22 168 61 0 0 0 1 54 3 1 72 11 .270 .368 .477 .845
1981 126 488 427 55 144 22 0 23 235 82 1 0 1 6 51 4 3 55 12 .337 .407 .550 .957
1982 119 444 403 40 122 25 0 18 201 63 0 1 0 2 38 3 1 57 12 .303 .363 .499 .861
1983 阪急 130 545 480 67 139 18 0 36 265 114 2 2 0 7 58 3 0 83 8 .290 .361 .552 .914
1984 63 185 160 14 29 3 0 3 41 20 0 1 0 4 19 0 2 42 6 .181 .270 .256 .527
1985 13 24 24 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 4 1 .083 .083 .083 .167
通算:19年 1729 5937 5349 617 1522 230 10 244 2504 809 44 35 24 42 492 39 30 761 146 .285 .346 .468 .814
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

  • 首位打者:1回 (1978年)
  • 打点王:1回 (1983年)

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1978年6月25日、対読売ジャイアンツ13回戦(広島市民球場)、3回裏に堀内恒夫から中越ソロ ※史上96人目
  • 1000試合出場:1978年8月12日、対ヤクルトスワローズ18回戦(広島市民球場)、5番・一塁手として先発出場 ※史上203人目
  • 1000安打:1980年4月18日、対ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、7回表に安田猛から ※史上115人目
  • 150本塁打:1980年7月8日、対読売ジャイアンツ13回戦(広島市民球場)、5回裏に西本聖から左越ソロ ※史上56人目
  • 200本塁打:1982年8月15日、対中日ドラゴンズ21回戦(ナゴヤ球場)、1回表に都裕次郎から左越2ラン ※史上38人目
  • 1500試合出場:1982年9月2日、対中日ドラゴンズ24回戦(広島市民球場)、5番・一塁手として先発出場 ※史上72人目
  • 1500安打:1984年6月21日、対西武ライオンズ16回戦(平和台球場)、3回裏に石井毅から右前安打 ※史上49人目
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:1回 (1971年)

背番号

  • 38 (1966年 - 1970年)
  • 4 (1971年 - 1985年)
  • 63 (1987年 - 1988年)
  • 84 (1989年 - 1993年)
  • 72 (1994年 - 1995年)
  • 87 (1996年 - 1997年)
  • 71 (1998年 - 2001年)
  • 73 (2003年 - 2006年)
  • 70 (2013年)

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c “【12月24日】1982年(昭57) 勝負師・水谷実雄「なんでいつもオレが」のトレードで打点王に(野球) ― 日めくりプロ野球08年12月”. スポニチ Sponichi Annex (2008年12月24日). 2009年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月2日閲覧。
  2. ^ 小野俊哉『プロ野球は「背番号」で見よ! (光文社新書)』光文社2013年6月18日、ISBN 433403750X、p68。
  3. ^ “広島総合&広島市民球場:ボクの思い出STADIUM”. 中日スポーツ(CHUNICHI Web) (2016年7月12日). 2016年8月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月2日閲覧。
  4. ^ “【10月15日】1975年(昭50) 広島、巨人の目の前で胴上げ!球団創設26年目の初優勝”. スポーツニッポン (2007年10月15日). 2012年9月20日閲覧。
  5. ^ a b c d e f ベースボールマガジン、山本浩二と広島東洋カープ 2024年 5月号、SPECIAL INTERVIEW【クリーンアップ編】水谷実雄[元広島ほか]「割りに始まり、割りに終わる」ベースボール・マガジン社,34-37頁
  6. ^ a b 『引退 そのドラマ』263-264頁
  7. ^ 日刊スポーツ 1988年9月10日7版
  8. ^ a b ““はだし練習”で大成…江藤、前田、中村紀育てた名伯楽 中日・根尾は「左足の内転筋強くしろ 親指内側にマメを」”. 中日スポーツ、東京中日スポーツ (2022年2月16日). 2024年4月6日閲覧。
  9. ^ “【1ページ目】【長嶋清幸コラム】山本浩二さんに大きな借りを返せなかったのは自分自身の汚点”. 東スポWEB (2022年3月15日). 2023年5月2日閲覧。
  10. ^ 『近鉄バファローズ球団史 1950-2004』ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK 833〉、2012年、32頁
  11. ^ “【中村紀洋の目】プロに入れば指名順位は関係ない 高卒入団で大成した選手の共通点とは”. Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― (2018年11月27日). 2023年5月2日閲覧。
  12. ^ テレビ宮崎公式サイト内アナウンサー・興梠裕子のブログ2008年9月15日更新時トップページ(リンク先は、インターネットアーカイブ2008年9月19日付保存キャッシュ)より、2008年8月20日『取材日記☆甲子園編☆』を参照。
  13. ^ 『FLASH』2012年10月2日号掲載特集記事『球団史上初のCS進出へラストスパートだ 広島東洋カープ「こうして甦った!」』より、1991年のカープ優勝メンバーを紹介する記事の中で、発行時現在経営している店の名として記載。
  14. ^ 連載コラム 「第二のプレイボール」Vol.9 ー 2015年11月号|神戸っ子アーカイブ
  15. ^ “鶏処 だれやみ (甲東園/鳥料理)”. 食べログ. 2023年5月2日閲覧。
  16. ^ “水谷実雄氏のコーチ就任について|球団ニュース|ニュース”. 阪神タイガース公式サイト (2012年10月12日). 2023年5月2日閲覧。
  17. ^ “水谷実雄コーチの退団について|球団ニュース|ニュース”. 阪神タイガース公式サイト (2013年10月15日). 2023年5月2日閲覧。

参考資料

  • 『FLASH』 2012年10月2日号(通巻1207号。同年9月19日発売、光文社発行)
  • 近藤唯之 『引退 そのドラマ』新潮社(新潮文庫)、1986年
  • 坂本邦夫『プロ野球データ事典』PHP研究所、2001年

関連項目

 
業績
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグ首位打者
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
パシフィック・リーグ打点王
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
 
セントラル・リーグ ベストナイン(1回)
1971年 セントラル・リーグ ベストナイン
広島カープ - 1965年ドラフト指名選手
指名選手