松平康忠

 
凡例
松平 康忠
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文15年(1546年
死没 元和4年8月10日(1618年9月28日[1]
改名 康忠→源斎(法号)
別名 源七郎[1](通称)、上野介
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康信康→家康→秀忠
氏族 長沢松平家
父母 父:松平政忠[1]
母:松平清康の娘・碓井姫
正室:松平広忠の娘・矢田姫[1]
継室:松平信定の娘
康直、直隆、直宗、直之、娘(長沢松平忠直室)
養子:直信(娘と長沢松平忠直の子)
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松平 康忠(まつだいら やすただ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。長沢松平家8代当主。徳川家康の従弟である。

生涯

永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで父・松平政忠が討死。祖父にあたる松平親広が若年だった康忠を後見した。一方で母の碓井姫は、徳川家の重臣である酒井忠次へと再嫁し離別している。永禄5年 (1562年)に元服し、三河国宝飯郡小坂井ほか1,810貫文を知行した。康忠の叔父である松平信重や松平近清らも、家康から100貫文ずつを給わって補佐を拝命した。信重は翌年からの三河一向一揆で家康方として討死したものの、近清はのちも康忠を支えて天正16年(1588年)に死去している。

その後の康忠は元亀元年(1570年)、義父の忠次に属して姉川の戦いに参加。続いて天正3年(1575年)の長篠の戦いでも忠次に従った。武田信実が守る鳶の巣砦を徳川軍の別働隊として攻略し、長篠城を開放している。さらに家康の嫡男である信康のもとで老職を務めたが[1]、天正7年(1579年)信康の自刃により蟄居した。

のちに家康のもとへ召喚され、本能寺の変の際には家康の伊賀越えに同伴。小牧・長久手の戦いに参戦している。天正16年(1588年)に嫡子の康直へ家督を譲り京都に居を定める。

ところが武蔵深谷藩の藩主となっていた康直が文禄2年(1593年)に24歳で病没。家康の七男の松千代を康直の養子として、深谷藩1万石を相続をさせた。しかし松千代も慶長4年(1599年)に夭折したため、その兄の辰千代(後の松平忠輝)に名跡を継がせた。元和4年(1618年)8月10日に死去。享年73。

なお元和2年(1616年)に起きた忠輝の改易によって長沢松平家の嫡流は途絶えたが、康忠の系統は後世に伝わっている。娘が同じ長沢松平一族の松平忠直(大名とは別人)に嫁いでいたが、隠居していた康忠はこの娘の子であった直信を養子とし、家伝来の品を譲っている。この子孫は代々御家再興を幕府に嘆願し続けたが認知されず、数代後にようやく微禄を与えられ長沢松平本家は再興されている。


天文9年(1540年)の安城合戦で戦死した伝承のある同姓同名の松平康忠(甚六郎)が存在するが、こちらは松平親忠系で松平張忠の子であって別人である。

脚注

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  1. ^ a b c d e “松平康忠”. コトバンク. 2011年2月12日閲覧。

関連項目

長沢松平家8代当主(1560年 - 1588年)
松平郷 信広 長勝 勝茂 信吉 親長 由重 尚栄 重和 信和 親貞 尚澄 親相 信乗 信言 信汎 頼載 信英 信博 九洲男 信泰 英男 弘久 輝夫
宗家 信光 竹谷 守家 守親 親善 清善 清宗 家清 忠清 清昌 清直 清当 義堯 義著 義峯 守惇 守誠 善長 清良 清倫 敬信
宗家 親忠 大給
宗家 長親 宗家 信忠 宗家 清康 広忠 家康 徳川氏
三木 信孝 重忠 忠清 断絶
鵜殿 康孝 康定 清長 清吉 清忠 清政 清次 祐義 義清 祐教 清門 義崇 義理 健三郎 鉄太郎 富次郎
福釜 親盛 親次 親俊 康親 康盛 康俊 康兆 康永 断絶
桜井 信定 清定 家次 忠正 忠吉 家広 忠頼 忠重 忠倶 忠喬 忠名 忠告 忠宝 忠誨 忠栄 忠興 忠胤 忠養
東条 義春 忠茂 家忠 忠吉 断絶
藤井
滝脇 乗清 乗遠 乗高 乗次 正貞 正勝 重信 信孝 信治 信嵩 昌信 信義 信圭 信友 信賢 信進 信書 信敏 信成 信広 信鑰 宏光 平人
形原 与副 貞副 親忠 家広 家忠 家信 康信 典信 信利 信庸 信岑 信直 信道 信彰 信志 信豪 信義 信正 信興 信美 忠正
大草 光重 親貞 昌安 昌久 三光 正親 康安 正朝 正永 断絶
五井 忠景 五井 元心 信長 忠次 景忠 伊昌 忠実 伊耀 忠益 忠明 忠根 忠寄 忠命 忠元 忠質 忠凱 弘之助
深溝 忠定 好景 伊忠 家忠 忠利 忠房 忠雄 忠俔 忠刻 忠祇 忠恕 忠馮 忠侯 忠誠 忠精 忠淳 忠愛 忠和 忠威 忠諒 忠貞
能見
長沢 親則 親益 親清 勝宗 一忠 親広 政忠 康忠 康直 松千代 忠輝 直信 昌興 親孝 親応 親芳 忠道 忠敏 忠徳